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略歴

1989年 神奈川県横浜市 出身

2012年~第一生命 首都圏コンサルティング → ITベンチャー → アフラック専属代理店 → 現在

自分の強みを活かして誰かの役に立つこと、興味がある分野で楽しく仕事が出来ること、生涯役に立つ勉強ができること、の3点を考え生命保険会社に入社。上司にも同期にも先輩にもお客様にも恵まれ「天職かもしれない」と思いながら楽しく仕事に励む。その後若いうちにいろいろ経験しておきたいと思い違う業界に転職するも生涯保険業に身を置き勉強したいと再転職。

産後復帰し、さらにコロナを境にたくさんの気付きと疑問点が生じる。「相続」「税金対策」「資産運用」が商談の中で多くなる中、今の知識や状況のままでは限界があり、友人やお客様に満足のいく提案ができないことにもどかしさを感じ、スキルアップのため勉強に専念するべく8年8ヶ月務めた保険会社を退職。また副業として収入を増やす方法、税金対策をどう上手く切り抜けるかなど貯金を切り崩し勉強。海外の情報を取り入れ憲法の勉強にも力を入れるようになった。

そして節約兄さんこと”せつ兄“とご縁があり、面接を志望し入社。

経歴とエピソード

**幼少期:**3歳前後で気管支喘息と肺炎で命の危機にも直面した幼少期。入院で数ヶ月親と離れる寂しさと毎晩怖い夢を見ていた事とトイレに行く度に点滴台を倒していたのを今でも覚えている。病弱な面とは裏腹に親からは「好奇心旺盛で人見知りもせずふら~っとどこかへ行ってしまいよく迷子になっていた」と。しかし私は知っている。私がいない方が早くスムーズに買い物が終わるが故にあえて毎回買い物が終わるまで迎えに来なかったことを・・・。

**学童期:**プロフィール帳に自称「目立ちたがり屋」「派手好き」と書き、皆が嫌がることを積極的にやる変わり者。人のお世話がすきで小学3年生にして先生から「お母さんみたいだね」と言われた一言が教師を目指すきっかけに。お昼休みはみんなでモー娘。を踊るのが定番化し、全校生徒の前で慎吾ママのおはロックを踊ったりと、今思えばこの頃から「羞恥心」というものがなかった気がする。1人で森を探検、公園で遊んでいたらあごを5針縫う事態、ローラーブレードで塾に行く、週7公園で遊ぶ、男の子を泣かせるほどのケンカをするなど親の想像を超える野生児だったようで、一緒に住んでいた祖母がしょっちゅう心配して探しに来て、母は私の性別を「間違えたわ」とよく言っていた。

**思春期:**ミニバス経験からバスケ部の見学に行くつもりだったが陸上部に勧誘されそのまま入部。短距離が得意と思っていたある日、中長距離に転身させられ、強化合宿、選抜合宿など参加し先輩と共に関東駅伝に出場、部長も経験し人生を大きく変えた3年間。まゆげを細くしたら顧問に呼び出され「気がたるんでいる」としこたま怒られた事も。3年間学級委員を経験し勉強しなくても良い点が取れていたことから高校受験を甘く見ており、推薦を蹴って頭の良い高校を受験し挫折を味わう。横浜市1の大規模校かつ部活が盛んな中学校で先生、先輩、同級生、後輩に恵まれた3年間。

**青年期:**受験に落ちると思っていなかったので、小学校からの先輩が通っているからという理由で何も調べず決めた私立高校に入学。陸上部に入ることも視野に入れていたが入学時点で廃部、野球部のマネージャーに憧れるも、男子が圧倒的に少ない元女子高で野球部がないと知り「高校生活終わった・・・」と諭す。であれば強い部活で全力を注ぎたいとバトン部(ソングリーディング)に入部。生まれつき股関節が硬く柔軟をしてもそこまで柔らかくならないタイプの人種と知る。致命傷だったがギリギリチームに選抜され先輩たちと全国大会で入賞。

反抗期のピークで少々夜遊びもするようになり親とも衝突。規則により本当はNGだがこっそりバイトも掛け持ち。

**成人期:**縛りがなくなった反動で金髪にして大学デビュー。幼少期からの夢だった教師になるべく大学ではスポーツと医療を同時に学べる大学に入学。1年目の8月時点で12単位しか取れなかったことに焦りを感じ1人暮らしを開始。サークルやバイトをして遊びすぎて「まあ何とかなる」と早々に教員の資格を取ることを諦める。結果3年間で単位を取得し終わるも、その後教員免許を取らなかったことを後悔することに。

教員以外で自分の強みを活かし誰かの役に立つことをしたいと思い、保険会社に入社。「今が良ければ全て良し」と思っていた10代~20代だったが、目先のことだけでなく先のことを見据えるようになった20代~30代へと変わっていった。

私にとって保険とは?